侮るなかれ

 

9月の中盤、私は所属している部活(ほとんどサークル)の合宿に参加した。
音楽系の部活だが、基本的に個人で弾き語りをする人の集まりだ。行きのバスで、2人がけに1人で座っている人が数人いた。人数は全部で偶数なので、1人になる人は出ないはずで、要するに、まだお互いに気まずい・仲良くない人同士もいるということ。たとえ誰かと一緒に座っていても、全員が全員と仲がいいわけでは決してなくて、不思議な空気感が流れていたように思う。

合宿の内容は、特記することは特にない。3食を一緒に食べて、一緒にお風呂に入って、一緒に寝る。お酒もタバコも姿を現さず、ひたすら音楽をして、思い出したように遊んで、また音楽をする。
夜のお喋りやトランプなんかもありながら、自然に増えていたのはコミュニケーションだった。
「自然に話す」ということを、日々の活動日にできるようになるのは難しい。合宿中も個人練習が多かったけれど、圧倒的に会話が増える。そりゃあ当たり前だ。3日間という短い時間でも、生活を共にするのだから。

3日間終えて、大学に帰った最後のミーティングのとき、部長さんがこんな言葉を口にした。

「同じ釜の飯を食べるということは、こういうことだ。」

圧倒的にコミュニケーションが増えて、空気感が暖かくなっていたことを実感していたのは、どうやら私だけではないようで。同期の子も、「一日目と全然違うよね」と話していた。
帰りのバスの中で、1人で座った人はいなかった。


合宿に参加するまではほとんど赤の他人だった人と友達になり、行動を共にする。合宿という場所で半強制的にそれを強いられるわけだけれど、こういう機会は人生であと何回あるんだろうか。
大学生になって良くも悪くも、好きな人とだけ絡めばよくなった。友達というものを増やそうと思わなければ増やすことは出来なくなった。だからとても有難い時間だったと思う。個人で練習しているとしても、みんなで何かをするということはやっぱり楽しいものなのだ。

たまたま同じ大学に入り、数あるサークルの中から選んだところが同じだっただけ。
でもその前に音楽が好きだという共通項は存在する。
その一点だけでこんなに沢山の繋がりが生まれるし、端的に言えば友達が増えるのだから、趣味というのはどんな小さなものでも侮ってはいけない、と思うなどした。


そんなこんなで、大学1年生の夏休みが終わる。9月に入ってなんとなく風が変わったような…気がしたのは一瞬で、まだまだ暑すぎる。そろそろ「今日も暑いなあ」と思うのをやめたい…秋らしい日が待ち遠しい。

長かったような短かったような夏休み、ブログに書ききれないほどいろんなことをした。これからまた履修登録をして課題に追われる日々がやってくるが、なにしろ過剰なほどしっかり遊んでしっかり休んだので、そこまでいやな気分ではない。まあ、一週間後くらいには、夏休みに戻りたいと叫んでいる自分の姿が安易に想像できるけれど。

「べ」の字もない



私は先日、人生でほぼ初めての海外旅行に行ってきた。韓国に2泊3日の超短期旅行。ちなみに3歳の頃に両親とサイパン旅行に行ったらしいが、当たり前のように記憶は無い。だから、”ほぼ”。

恥ずかしながら白状すると、母国を出るということを甘く見ていた。韓国は日本から近い国だし、何とかなるだろうと思っていた。いや、実際には何とかなったのだが、それは「パスポートを無くさず、死なずに帰ってきた」もしくは「詐欺や犯罪に巻き込まれなかった」レベルの「何とかなった」であるのだ。ハプニングがなかったとは決して言えないし、全ての旅程が順調であったとは言い難い。

いちばん痛感したのは、言葉が通じないことの不便利さ。いや、不便利なんてもんじゃない。もうほとんど「孤独」といっていい。何かを伝える、表現するということに関して、比べ物にならないくらい不自由になるということ。母国を出ないと得ることが出来ない経験だった。

けれど、「孤独」を裏っ返せば、そこには「開放」が潜んでいる。日常のありとあらゆるものから距離を置くという開放感は、母国にいたら得がたいことだ。すれ違う人の会話のひとつも分からない。街中の看板の内容のひとつも分からない。努力しないと情報を得ることが出来ない。それは開放的で、気持ちがいいものだった。

ありとあらゆる文化の違いも実感できた。例えばごはん屋さんで、日本ではたいてい、定員さんに案内される席に座るが、韓国では客が勝手に席を決めて座っていい。地元の人が愛用するような「The食堂」に勇気をだして入ってみたとき、入口に突っ立っていても見向きもされないので、少しおどおどしてしまった。観光客だとまるわかりだっただろう。いい思い出だ。

結局のところ、とてもとても楽しい旅行だった。色々と学ぶこともあったし、また海外旅行をしたいと思える旅だった。
さすがに次は、もうすこしレベルの高い「何とかなった」といえる旅行にしたいと思う。



そんなこんなで、大学1年生の夏休みである。前回のブログで、「課題がやばい」と焦っていたのが遠い昔のよう。えらいことに、すべてのタスクを期限内に無事に完遂した私は、最終レポートを提出した7月末から今日まで、べんきょうのべの字もない生活を送っている。文字通り、「遊び呆ける」夏休み。高校までは部活や勉強もあったので、遊ぶだけの夏休みは久しぶりだということに気がつく。(それこそ、幼児ぶり?笑)


連日続く溶けるような暑さと、もくもくした雲が、とてつもなく夏だ。だから好きなところに行って、好きなことをして、好きなものを買う。

そんな夏休みが人生百年のうちもう一年あったって、バチは当たらないだろう。

 



 

空は遠く、青く

 

私がブログを始めたきっかけはいくつかあるけれど、そのひとつに、ずっと前から読んでいるブロガーさんの存在がある。その人は女性で、関西に住んでいる社会人。韓国のアイドルグループが好きで、猫ちゃんと暮らしている。そして、パソコンのキーボードを叩くことが好き。偏頭痛持ち。

その人のブログには、日記のように、どうでもいいことが書かれている。しかもあんまり変わり映えしない。仕事でトラブルが起きたこと、それを何とか建て直したこと、そしたら終電を逃したこと。 

そして、「疲れたなあ、眠いなあ、お腹すいたなあ、夕飯なににしようかなあ」みたいなこと。

大層なことなんて書かれていなくて、でも私はそれがすごく好きで。
そうやって遠くの空の下で生きている人のことをチラチラと覗いているとき、その人のことがとても近しく感じられる。私はその人のことを、前記したぐらいのことしか知らないのに、ずっと前から仲のいい友人のような感覚になる。

日記やエッセイ、一人称小説は、文章の語り手本意で成り立っているところが魅力だ。



このブログも、完全に私本意でくだらないことしか書かないつもりだった。しかしながら、大学一年生は思ったよりも、くだらないことばかりを考えさせてはくれない。
社会人になれば、4年後のこともある程度予測がつくのかもしれない。けれど、今の私は4年後のことを想像することすら出来ない。
だから、「疲れたなあ、眠たいなあ、お腹すいたなあ、今日の夕飯なにかなあ」ってことをだけ考えているわけにもいかない。そこに、「課題やらなきゃなあ、来年はインターンかなあ、留学どうしようかなあ」ぐらいは追加しないといけない。
まあでも結局、「空が青いなあ、今日も暑いなあ、お腹すいたなあ」って考えに巡ってくる。

……まだまだ子供である。

 

ただ、登下校中の電車に揺られながら、取り留めもないことを考えて、想像して、時には難解なことに思考を巡らせている自分が、好きだったりする。

そして、遠くの青空の下で頑張っている女の人のことを考えて、ちょっと気分を前向きにする瞬間が、幸せだったりする。
小さな考えも大きな考えも、全部大切に扱いながら過ごしていきたい、と思う。



さてさてそんなこんなで、今日は英語のテストでエッセイを書いた。300単語、手書き。大学生になって勉強のモチベーションが上がった、はずだったのに、テストの内容を知って気が遠くなったのは3日前のはなし。やれるだけのことはやった、あとは運に任せるだけ!と臨んだら、張っていた山をことごとく外した。何とか書き終えた自分をほめてあげるべく、帰りにパンケーキをたらふく食べた。ああ何よりも、本当に手首が痛い。

英語のテストだけでは飽き足らない。これからやるべきタスクを見直して、頭を抱える今日この頃だ。これから2週間くらいは、やれ課題だ、レポートだと追い詰められるんだろう。数週間したら黄金の夏休みがやってくるのだけれど…たどり着ける気がしない。

 

まあでもきっと、何とかなるだろう。

やることがありすぎてあたふたしている時の自分も、好きだったりするのだから。

ポニーテールと夏

高校時代の友人に、「あなたのポニーテールを見ると、夏が来るんだなあって感じがする」って言ってもらったことがある。




最近本当に暑い。まだ6月なのに…と思ってカレンダーを見たら、あと数日で7月だった。
今年の4月は新しい環境に突っ込まれたからか、とても長く感じた。その反動からかもしれないけれど、5月、6月と、ものすごい速さで過ぎていく。
もう7月か、と思いながら、今日はポニーテールにした。


夏以外の季節では、私は基本髪をおろしているか、ハーフアップにしている。首元が髪の毛で覆われている方が安心する。でも、さすがに夏は暑すぎるから、気温が高くなってくるとポニーテールをし始める。春から夏の間の微妙な時期、その年で初めてポニーテールを結っている朝の時間が、結構好きだ。

ちょっとだけ、気持ちが引き締まる感じ。暑さやほかの何かと、戦う準備をする感じ。来る「自由」に向けて、気合を入れなおす感じ。結構じゃなくて、かなり好きだ。

だから冒頭の言葉を言われたその時も、私のことをよく見てるなあと思いつつ、とっても嬉しかった。
ポニーテールと同様で、その年で初めてサンダルに足を通すときも、ワクワクする。もう夏だなあって、思うことはそれぐらいなんだけど、ソワソワワクワクする。

私の好きなアーティストの方が、「夏にはほかの季節にはない、特別な匂いがある」とインタビューで言っていた。私は季節にはそれぞれ匂いがあると思うのだけれど、夏は匂いが濃いような気もする。

夏って汗はかくし日焼けはするし、めんどくさいことばっかりだけれど、いざ、暑くない夏を想像するとそれは違うってなる。私の父の口癖、「夏は暑くなきゃなあ」の意味が、18歳になってようやく分かる。暑くない夏は興ざめだ。



そんなこんなで、去年は部活に勉強にと大忙しだったけれど、今年はもっと活動範囲を広げていきたい。
大学生って色んな意味で自由だから、何をしても許される気がしてくる。「何をしても」は言い過ぎかもしれないけれど、人に迷惑をかけない範囲で羽目を外してみるつもり(今までかなり実直に生きてきたからか、羽目を外すやり方があんまり分からないんだけれど)

好きなところに行って、好きなものを見て、好きな人に会う。そのためのお金も真面目に稼ぐ。
そう意味での自由を謳歌したい。


大学一年生の夏が、やってくる。

この一文、一言だけで、胸が高鳴る。
やっぱり夏は特別なのかもしれない。

18歳を飼い慣らす

 

 

ため息が出るほどに、難しくて、めんどくさい年齢だなあ と実感している。

 

このブログにいちばん最初の投稿に、同じ趣旨の言葉を書いた。

 

「18歳とは、難しい年齢だ。お酒やたばこは許可されていないくせに、納税の義務が課せられて、国政に参加する権利が与えられる。」

 

あの時は統一地方選挙の直後だったこともあり、この文を書いたのだけれど。今日はもう少し掘り下げたはなし。

 

 

「もう〇〇なんだから」「まだ〇〇なんだから」

昔から、何かにつけて言われてきた。

もう中学生なんだから、まだ中学生なんだから。

もう高校生なんだから、まだ高校生なんだから。

もう18歳なんだから、まだ18歳なんだから。

 

場面と状況、人によって、生きてきた年数に対する評価は変転する。18という値は同一であるのに。

ある人からは「まだ若いねえ」と言われ、ある人からは「もう大人だねえ」と言われる。

ある場面では私は成熟した人でいなきゃいけないけれど、ある場面では背伸びしすぎだと怒られる。

 

私はまだそんなに大人じゃないし、そこまで子どもなわけでもないんだよなあ。そう思いながら、「まだ子どもなんだから」というお叱りを、大人らしく、大人しく聞いている。

 

めんどくさい年齢だ。

 

 

 

ここまでは他者からの評価だけど、同じように、自己の評価も変転する。

 

数年先の将来のことを真面目に考えられるっていう一面を見てみると、大人になったなあと思うし、夜遅くに一人で歩くのが怖いっていう一面を見てみると、まだまだ子供だなあと思う。

 

そして私は、大人になりたいわけでも、子どもに戻りたいわけでもない。

 

めんどくさい年齢である。

 

 

そんなことをつらつら考えつつ、それでも私は今が楽しくもある。

なぜって、全部を逆転して考えてみれば、私は大人になってみてもいい。そして子供になってみてもいい。どちらになることも許されているからだ。

 

もうなんでも知ってるって偉そうな顔をして、大人のフリをしてみる日。

まだまだなんにも知らないって無垢な顔をして、子供のフリをしてみる日。

大人の日には、自分のバイト代でちょっと高価なアクセサリーを買う。子供の日には、父親に強請ってお洋服を買ってもらう。

そんなことがきっと許される、18歳。

 

 

この文章を書き始めたとき、最初は「18歳を持て余す」というタイトルにしていたんだけれど、考えながら書くうちに変えた。

今の私を楽しめる時間は、今しかないのだ。いくら中高生時代の青春が懐かしかろうと、いくら社会に出て働きたくなかろうと。戻れないし、逃げられない。

持て余すなんて、もったいない。今を謳歌しないといけない。

難しくてめんどくさくて、無敵な18歳を、飼い慣らして生きなくては。

 

 

 

心が軽くなることば

母国語を使って話すとき、私たちは言葉に心を乗せることが出来る。

言葉だけの意味合いを超えて、ニュアンスとか、チョイスとかで、自分の感情を表現することが出来る。しかも日本語はとにかく語彙が多いから、極めれば極めるだけ言葉が奥深くなるだろう。
逆に言えば、物事をなんでもない事のように言いたい時でも、意図せず感情が乗ってしまうし、深読みされれば読み取られてしまう。場の空気を深刻なものにしたくないときでもそうなってしまうことが多い。「全然、笑ってくれていいんだけど」なんて前置きを言ったところで、それも逆効果だったりすることがある。




大学の英語の初回授業、なんの予告もなしに、「自己紹介を英語で、最低2分は喋りましょう」と先生は言った。中学生でも意味がわかるくらいの簡単な文章でも、2分間話すことは難しい。
みんな四苦八苦しながら言葉を紡ぐ中で、あるひとりの子は、『中学校と高校の時は学校に行けなかった』と言った。
細かい文法の間違いはあるだろうけれど、その子は確かに、英語でそう言った。

同じ自己紹介の場で、同じ文章を、日本語で聞いていたとしたら、もっと重く受け止めてしまったかもしれない。空気の温度が下がってしまったかもしれない。
でも、英語でその場に落とされたその言葉は、不思議なくらい重くなかった。すんなりと、場に落とされただけだった。

それを言ったその子も、とても落ち着いていて、晴れやかだった。

その他にも、『持病を持ってる』みたいなことから、『一人暮らしが寂しくて毎晩泣いてる』なんて可愛いことまで。恥ずかしかったり、言いにくかったりする発言が飛び交った。
日本語で言われていたら笑えないような内容で、教室に笑いが生まれていた。

英語で話すとき、私たちは語彙が圧倒的に少ないから、表現がより直接的になり、飾り気がなくなる。場の空気や人の表情を気にしすぎずに、自分が喋ることだけに注力することが出来る。

それは意図せず、言葉に込める「心の重量」を減らしてくれる。

初めて感じた空気の軽さ、肩の軽さだった。



言葉に心を乗せる、たしかにとても素敵なことで、私たちはそうやって意思疎通を測りながら生きている。
けれど、冒頭で書いたように、母国語で話すとき、妙な息苦しさがあることも事実だ。
母国語以外の言語を学ぶことの意義は、こういうところにあるのかもしれないなあ、とも思った。
(そして英語で話すのが楽しい…)


もちろん英語だって極めていけば、心を乗せることができるようになるかもしれない。まだまだカタコトだからこそ、その良さを大事にしながら学んでいきたいと思う。


後輪に人生

 

道端ですれ違った、自転車に乗ったサラリーマン。明らかに仕事帰りで、スーツにネクタイを閉めていた。顔はちょっとしか見えなかったけれど、多分私の父と同じくらいの歳。
立ち漕ぎをしながら、勢いよく私を通り過ぎていった。
その人が乗っていた自転車の後輪には、子供乗せがついていた。

(子供乗せっていう呼び方でいいのかな?調べてもそれっぽい単語が出てこず…)

子供乗せってこんなの⤴



なんだかほっこりしたっていう話。

子供乗せはつけるのも、外すのも手間がかかる。うちに前まであった自転車もそうだがけれど、自分の娘や息子が、もうそれに乗せられないぐらい育っていたとしても、つけっぱなしにしてしまう人は多いだろう。
そしてすれ違ったその人も。
今は使われていない子供乗せは、昔は愛しいものを守っていたのだろう。

そこまで想像して、ほっこりしてしまった。


4年生大学を卒業して、定年が65歳だとすると、社会人として働くのは40年と少し。
人生の半分にもなる時間を、社会人として過ごすことになる。しかもその労働が自分のためだけじゃなくて、家族とか、子どもの養育とかのためだったりする。私に出来そうにもない。
朝起きて学校に行く…のではなく、会社に行くことがまず、想像できない。数年後にはそうなっているはずなんだけれど。

大学生になって、人生初めてアルバイトを始めた。たかが4、5時間の労働だけでてんてこ舞いになっているから、社会人になるのがかなり不安ではある。まああと4年あるんだけど。覚悟しなくては、という気持ちだ。

最近そうやって、小さすぎるながらも、日本経済の歯車の歯になれたからか、お金を稼ぐってすごいなあ、とか、大変だなあっていう幼稚なことばかり考えている。逆に、こんな私でもお金を稼げるんだな、と自己肯定感が爆上がりしている(これぞ、箱入り娘の特権である)

私もいつか、我が子を後輪に乗せて自転車をこぐ日が来るんだろうか。これもまだまだ想像できない。

自転車に乗るサラリーマンを見てほっこりした。どうでもいいTMI。
単純すぎるけれど、バイトも頑張ろうと思います。

お父さん、お母さん、社会人の皆様、お仕事お疲れ様です。