立冬過ぎ

「あなたの青春の味は何になるかしらね」そう言って穏やかに笑った先生は、「私のはこれ」と言いながらひとつのボタンを押した。ガコンという音と、取り出されたピーチティーのピンクのフィルムがやけに印象に残っている。高校生のとき、今と同じ、冬の初めのころだった。もうブレザーを出さなきゃいけない。今年マフラーを新調した。もうすぐあの子の誕生日だけど、どうする。あの子とあの子が付き合ったらしい。私はクリぼっちなんだけど。行ったり来たりして、何を買おうかな、やっぱり買わない方がいいかななんて思案しながら、ちょっと早口で、些細なことををさも重大な秘密のことのように話した。校舎の一角にある3つの連なった自動販売機は、当時の私たちにとってのオアシスであり、スタバであり、私たちだけの逃げ場だった。最初は1番端っこのひと種類──大抵はコーヒーから始まり、ふた種類、1段全て、最後には売られている半分がホットの飲み物に変わる。天気も、植物も、動物も、人々の服装も会話も、自動販売機だって、寒い季節の訪れを告げる。みんな揃って冬支度。それを寂しく思うようになったのはいつからだろう、もしかしたら高校生の時かもしれない、とふと思った。私の高校生活は3年間ぴったり、新型コロナウイルスと隣合った。中学校の卒業式が縮小になり、その後3ヶ月ほど学校が休校になった。色んな行事も満足に出来なかった。段々と気温が下がって、自販機のランプにオレンジ色が混じって、学校にいる間に太陽が沈むようになって…感じていたのは焦りと寂しさだった。時間が足りないと、いつもいつも思っていた。だから、日々の中の小さな出来事を、忘れないように覚えておこうとしていた。写真に撮っておこう、文字にしておこう、メモしておこう。瞬間をつなぎとめるのに必死だった。そうしていたら、とても小さな出来事とか会話とかが、記憶として頭に残っている。きっと数秒にも満たないような、小さな言葉だけれど、先生の声音とがよく思い出せる。例えるなら、遠くにある楽しみな何かを、ひっそりと打ち明けるときの声音…みたいな感じ。そんなことをチラチラ思い出しながら、今年度最初のホットを買った。現段階の私の「青春の味」は、黄色いフィルムのはちみつレモン。高校のとき一体何本飲んだんだろう、今年もお世話になります、と思うなどなど。さて、立冬も過ぎ、年末も近づいてきた。私は冬が大の苦手なので、まだ秋だ!冬じゃない!と毎日友達に訴えている(きっと鬱陶しいことこの上ない)。寒いし眠いし、休日はお布団と恋人になる勢いでずっとゴロゴロしていて、必然だとばかりに体重が増えた。冬のいい所って、真面目に考えてみても、みかんとりんごが美味しいこと以外思い浮かばない。まあなんだかんだと年末まで忙しなく活動しそうな予感だ。最近スマホのカレンダーを見直したら、予定を入れ過ぎて一日休みの日が冬休みまでないことに気が付いた。いつの間に…?と自分を疑う。冬はあんまり活動できないかもしれないと前の記事に書いたが、どうやらそれは杞憂に終わりそう。

とりあえず、この寒がりと冷え性をどうにかしたいと思うこの頃だ。