「べ」の字もない



私は先日、人生でほぼ初めての海外旅行に行ってきた。韓国に2泊3日の超短期旅行。ちなみに3歳の頃に両親とサイパン旅行に行ったらしいが、当たり前のように記憶は無い。だから、”ほぼ”。

恥ずかしながら白状すると、母国を出るということを甘く見ていた。韓国は日本から近い国だし、何とかなるだろうと思っていた。いや、実際には何とかなったのだが、それは「パスポートを無くさず、死なずに帰ってきた」もしくは「詐欺や犯罪に巻き込まれなかった」レベルの「何とかなった」であるのだ。ハプニングがなかったとは決して言えないし、全ての旅程が順調であったとは言い難い。

いちばん痛感したのは、言葉が通じないことの不便利さ。いや、不便利なんてもんじゃない。もうほとんど「孤独」といっていい。何かを伝える、表現するということに関して、比べ物にならないくらい不自由になるということ。母国を出ないと得ることが出来ない経験だった。

けれど、「孤独」を裏っ返せば、そこには「開放」が潜んでいる。日常のありとあらゆるものから距離を置くという開放感は、母国にいたら得がたいことだ。すれ違う人の会話のひとつも分からない。街中の看板の内容のひとつも分からない。努力しないと情報を得ることが出来ない。それは開放的で、気持ちがいいものだった。

ありとあらゆる文化の違いも実感できた。例えばごはん屋さんで、日本ではたいてい、定員さんに案内される席に座るが、韓国では客が勝手に席を決めて座っていい。地元の人が愛用するような「The食堂」に勇気をだして入ってみたとき、入口に突っ立っていても見向きもされないので、少しおどおどしてしまった。観光客だとまるわかりだっただろう。いい思い出だ。

結局のところ、とてもとても楽しい旅行だった。色々と学ぶこともあったし、また海外旅行をしたいと思える旅だった。
さすがに次は、もうすこしレベルの高い「何とかなった」といえる旅行にしたいと思う。



そんなこんなで、大学1年生の夏休みである。前回のブログで、「課題がやばい」と焦っていたのが遠い昔のよう。えらいことに、すべてのタスクを期限内に無事に完遂した私は、最終レポートを提出した7月末から今日まで、べんきょうのべの字もない生活を送っている。文字通り、「遊び呆ける」夏休み。高校までは部活や勉強もあったので、遊ぶだけの夏休みは久しぶりだということに気がつく。(それこそ、幼児ぶり?笑)


連日続く溶けるような暑さと、もくもくした雲が、とてつもなく夏だ。だから好きなところに行って、好きなことをして、好きなものを買う。

そんな夏休みが人生百年のうちもう一年あったって、バチは当たらないだろう。