心が軽くなることば

母国語を使って話すとき、私たちは言葉に心を乗せることが出来る。

言葉だけの意味合いを超えて、ニュアンスとか、チョイスとかで、自分の感情を表現することが出来る。しかも日本語はとにかく語彙が多いから、極めれば極めるだけ言葉が奥深くなるだろう。
逆に言えば、物事をなんでもない事のように言いたい時でも、意図せず感情が乗ってしまうし、深読みされれば読み取られてしまう。場の空気を深刻なものにしたくないときでもそうなってしまうことが多い。「全然、笑ってくれていいんだけど」なんて前置きを言ったところで、それも逆効果だったりすることがある。




大学の英語の初回授業、なんの予告もなしに、「自己紹介を英語で、最低2分は喋りましょう」と先生は言った。中学生でも意味がわかるくらいの簡単な文章でも、2分間話すことは難しい。
みんな四苦八苦しながら言葉を紡ぐ中で、あるひとりの子は、『中学校と高校の時は学校に行けなかった』と言った。
細かい文法の間違いはあるだろうけれど、その子は確かに、英語でそう言った。

同じ自己紹介の場で、同じ文章を、日本語で聞いていたとしたら、もっと重く受け止めてしまったかもしれない。空気の温度が下がってしまったかもしれない。
でも、英語でその場に落とされたその言葉は、不思議なくらい重くなかった。すんなりと、場に落とされただけだった。

それを言ったその子も、とても落ち着いていて、晴れやかだった。

その他にも、『持病を持ってる』みたいなことから、『一人暮らしが寂しくて毎晩泣いてる』なんて可愛いことまで。恥ずかしかったり、言いにくかったりする発言が飛び交った。
日本語で言われていたら笑えないような内容で、教室に笑いが生まれていた。

英語で話すとき、私たちは語彙が圧倒的に少ないから、表現がより直接的になり、飾り気がなくなる。場の空気や人の表情を気にしすぎずに、自分が喋ることだけに注力することが出来る。

それは意図せず、言葉に込める「心の重量」を減らしてくれる。

初めて感じた空気の軽さ、肩の軽さだった。



言葉に心を乗せる、たしかにとても素敵なことで、私たちはそうやって意思疎通を測りながら生きている。
けれど、冒頭で書いたように、母国語で話すとき、妙な息苦しさがあることも事実だ。
母国語以外の言語を学ぶことの意義は、こういうところにあるのかもしれないなあ、とも思った。
(そして英語で話すのが楽しい…)


もちろん英語だって極めていけば、心を乗せることができるようになるかもしれない。まだまだカタコトだからこそ、その良さを大事にしながら学んでいきたいと思う。