ゆっくり悲しむこと

 

感受性が強いということが、生きていて大きなハンデになる時がある。

不幸な出来事が自分にはなんの影響も及ぼさないところで起こったとしても、勝手に共感して、深く傷ついてしまう。他人の喜びを分かち合えるぶん、他人の不幸も分かち合ってしまう。私は幼い頃からそういう性質なので、歳を重ねるにつれて、共感しすぎないように、入り込みすぎないようにする癖がついた。昔は不幸を扱ったテレビ番組、ニュースすらも避けていたほど。
それでも何年かに一度は、どうしようもなく突きつけられてしまう。

 

何を言っても少なすぎるし、多すぎる。どう表現しても誰かを傷つける。ブログに書こうか迷ったけれど、残してくことにする。

遠くに行ってしまった人のことを、この世の誰か想うとき、天国でその人に花が降るらしいから。

 


その訃報を私が知ったのは、発表された次の日の朝、家の最寄りから乗った電車の中だった。
放心状態のまま大学の最寄り駅に着いて、歩き始めたとき、いきなり心臓が激しく動いて、視界が霞んで、自分の呼吸音をうるさく感じた。
はっと気がついたとき、私は自宅の最寄りの駅にいて、そのまま近くの公園に向かった。大学の最寄り駅から自宅の最寄り駅まで、どうやって戻ってきたのか、全く記憶になかった。

無数の人間の悲しみと動揺と怒り、そして根拠のない疑問と推測が蔓延っていて、SNSを見るだけで窒息しそうだった。

電源を切ったスマホを握ったまま、すぐそばを通る電車を眺めたり、空を眺めたり、目をつぶったりしていた。春そのもののような、優しい日だった。
ふと公園の時計をみると、お昼をゆうに超えた時間になっていた。
目元が乾いてきて、思った。
今日はただ、悲しもう。

 


この世の死には、訪れるべくして訪れた死と、そうではない死がある。25年間というあまりにも短いその人生を、故人はどんな気持ちで過ごしたのか。なにを思って最期を迎えたのか。想像もつかない闇の中でもがいていたのを、結局のところ誰も救うことが出来なかった。
人の痛みはその人にしか分からないということを、これでもかと実感させられた。

彼を殺したのは誰なんだろう。そんな、一生答えを得ることができない問いを繰り返している。そのたびに泣きそうになりながら。

 

悲しい。本当に、無念でならない。
ファンでもない私から見ても、たくさんの人を愛し、愛された人だった。笑顔の素敵な人だった。だから、私よりも渦中の中の方々の悲しみは、想像を絶するだろう。

ああどうか、どうか、そちらでは安らかでいてほしい。

彼のことを愛した人たちも、ゆっくり過ごしてほしい。




あの日から数日たった。ゆっくり悲しんだ日々だった。ちゃんと大学には行ったし、今日は面白いことがあれば笑って、食べたいものを食べることができた日だった。
そうはいっても、ふとした瞬間に思い出して、湧き上がってくる何かを抑えている。

きっとみんな、そうやって生きている。

 


読んでくださっているあなたも、どうかご自愛くださいね。